そばのせいろが上げ底なのは?|チコちゃんより

チコちゃん

そばのせいろが上げ底なのは?

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かし、チコちゃんは知っています。

将軍徳川家斉が贅沢三昧だったから~。

教えてくれるのは
江戸料理文化研究家
車 浮代

そばのせいろが上げ底になった由来をたどると、江戸時代までさかのぼります。

そばが日本に伝わったのは飛鳥時代(諸説あります)。

そこから食べ方がいろいろ変化していって器も変化していった。

中国から伝来したと言われる「そば」

もともとはそば粉を熱湯でこねた、そばがきを器に盛ってつゆにつけて食べていた。

その後戦国時代には「そば切り」といって、現在みなさんがイメージする細く切った形のそばが食べられるようになりました。

そばはゆでて食べるのが一般的ですが、当初は蒸して食べられていました。

その時そばをせいろに盛って蒸してそのせいろを器としてそのままお客さんに出すお店が登場したんです。

これがそばをせいろに盛るルーツです。  

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後にそばはゆでて食べるようになり、皿やザルに盛ったりしましたが引き続きせいろはそばの器として使われていました。

上げ底になったのは江戸時代、徳川家斉の時代。

1787年
13歳で将軍になった家斉。

その若さもあり、実質的に政治を動かしたのは老中松平定信でした。

定信が着手したのは寛政の改革前の老中田沼意次の賄賂政治を改めるため、財政の切り詰めをはじめ幕府内でも厳しい倹約がしかれました。

質素倹約は庶民にも求められ、さまざまな物の値段が下げられた。

寛政の改革で、そばは16文から14文に値下げ。

その時そばやさんは苦肉の策として1人前のそばの量を減らして対応したんです。

年を重ねるにつれ定信の質素倹約ぶりに反発するようになった家斉。

ついに、松平定信を老中の座から追放。

定信ら開放された家斉は江戸城で贅沢三昧。

豪華絢爛な大奥が最盛期を迎えた。

家斉は生涯で側室を40人以上置き、子供の数は55人を数えました。

歴代の将軍の中でもダントツです。

その贅を尽くした生活のための費用や子どもたちの養育費は莫大なものでした。

財政は悪化の一途をたどります。

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時の老中水野忠成は財政たてなおしのため、貨幣を大量発行。

市場には貨幣が溢れ急激なインフレ、つまりお金の価値が下がってモノの値段が急激に高くなり人々の生活は圧迫されます。

更に飢饉などが追い打ちをかけ生活苦からの百姓一揆や打ち壊しが激発。

大塩平八郎の乱も起きました。

家斉は値下げに踏み切りました。物価が上がっているというのにそばは16文から15文に下げられてしまいました。

おそば屋さんは幕府に値上げ要請をした。しかし願いは通りませんでした。

安い値段でそばを売ろうとした結果せいろの底上げを思いついた。

せいろをひっくり返して底上げを思いついたのではないかと言われています。

せいろの底が上がったいきさつは伝聞で伝えられているが・・・。

確かな資料は残っていないんです・・・。

  

ということで・・・
そばのせいろが上げ底なのは?

将軍徳川家斉が贅沢三昧だったから~。


  

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