シンクロニシティが起こるには意味がある。
よく偶然が続いたりするとシンクロがおきたとかシンクロしたというが、そもそもこれはカール ユングか提唱したもので、意味のある偶然の一致のことである。
よく誰かのことを考えていると突然その人から電話がかかってきたり、旅行先でいるはずのない友人が偶然同じところにいたりと、いろいろあるが、誰しも一度は経験したことがあるのではないだろうか。
シンクロニシティは日本語では「共時性」と訳され、複数の出来事が意味的関連を呈しながら非因果的に同時に起きることである。しかし、因果関係自体が哲学的議論になってくるため、正確な理解は難しく、解釈の余地が大きいとする考えがある。シンクロニシティは、それが起きることで意味を生成しているともいえ、ユングはシンクロニシティに現われる意味は、もっぱらユング心理学の中核概念である「元型」であると主張した。
代表的な元型
自我(エゴ)- 意識の中心であり、個人の意識的行動や認識の主体である。意識のなかの唯一の元型。影(シャッテン)- 意識に比較的に近い層で作用し、自我を補完する作用を持つ元型。肯定的な影と否定的な影があり、否定的な場合は、自我が受け入れたくないような側面を代表することがある。
アニムスとアニマ - アニムスは、女性の心のなかにある理性的要素の元型で、選択的特徴を持ち、男性のイメージでしばしば認識される。他方、アニマは、男性の心のなかにある生命的要素の元型で、受容的特徴を持ち、女性のイメージでしばしば認識される。ラテン語では、同じ語幹から派生した名詞の男性形と女性形、つまり、animus と anima が、前者は「理性としての魂」、後者は「生命としての魂」の意味があり、この区別を巧みに利用して、ユングはこの二つの元型の名称を決めた。(アニマとアニムスは総称して、「シュツギー」とも言われる)。
太母と老賢者 - 太母は、自己元型の主要な半面で、すべてを受容し包容する大地の母としての生命的原理を表し、他方、老賢者は太母と対比的で、同様に自己元型の主要な半面で、理性的な智慧の原理を表す。
自己(ゼルプスト)- 心全体の中心であり、心の発達や変容作用の根源的な原点となる元型。宗教的には「神の刻印」とも見做される。
その他の元型
これら以外にも、神話的な元型が多数ある。ペルソナ
子供
永遠の少年と永遠の少女
英雄
トリックスター
自我インフレーション集合的無意識の作用点である元型は、膨大な心的エネルギーを備えることがあり、元型の作用があまりに強く、自我が十分に自分自身を意識して確立していない場合、自我は、元型の作用像を自分自身の像と混同し、元型の像に同一化することがある。
例えば、英雄の元型に自我が同一化するとき、自我が自分をどのような役割と考えているかによって、自分自身の認知像の形にヴァリエーションがあるが、いずれにしても、自分が非常に大きな力・権力を持ち、偉大な存在であると錯覚する事態が生じる。これを自我インフレーションと言うが、集合的無意識は、ある場合には、無限のエネルギーを持っているように見えることがあり、その結果、自我のインフレーションは極端化し、自分こそは、世界を変革する英雄であり、偉大な指導者であるなどの妄想的な錯覚が生じることがある。
ウィキペディアより
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さらにユングは意識の奥に集合的無意識があり人はたがいに意識の奥で交流しているという。
一方、仏教(唯識)ではふるくから感覚を視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚と分けられさらに意識と無意識である末那識、阿頼耶識と八識あるいはアンモラ識の九識にわけられていたようである。
第八識の阿頼耶識が全てとつながる鍵とされていて、通常第七識の末那識(因縁識)がこれを邪魔しているために、大きな意識である阿頼耶識につながらないらしい。
いずれ意識の深いところでなんらかのつながりがあるらしい。
しかしこのシンクロは意識するほどよく感じられる。それにどこかで聞いたがシンクロが起こるほどいいのだそうだ。真偽のほどはわからないが…。
また、ただの勘違いも多々あるみたいだから、よくよく吟味しなければならない。
シンクロが起こっているときには深い意識と繋がっているからなのか?
一説によると、阿頼耶識(第八識)とつながることで悟りに近づくと言われている。
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