仏教とクリシュナムルティ|自己の究明から

仏教とクリシュナムルティ|自己の究明から

仏教(唯識派)の分析

仏教(唯識派)は心の働きを分析して八識説をたてました。

五官で感じるところの眼、耳、鼻、舌、身の五識。

そして第六識である意識。

ここまでは表面的な心として感じられます。

その奥にあるのが末那識(まなしき)である第七識。ここは我欲を満たそうとする働きがあり、自分中心の考えを持つとされます。このことから因縁識ともいわれます。

さらにその奥に第八識である阿頼耶識(あらやしき)があります。

ここは無意識の領域で過去の体験、記憶すべてが蓄積されているとされます。

さらに第九識として、無垢清浄な阿摩羅識(あまらしき)があると摂論宗の真諦三蔵は説いています。

一説に阿頼耶識が汚れを離れた状態であるともいわれ、大般涅槃経で言うところの仏性に通じるものです。

人は末那識(マナス)の命ずるままに自我を満たすことが、自己の実現であると信じているのが普通です。

私達は常にこのマナスに支配されているのです。それが自覚できないために、因縁の範疇でもがき苦しむとされます。

そこで自己の究明が重要となるのです。

クリシュナムルティの瞑想

そこでクリシュナムルティによると、瞑想の出発点は、自己認識です。そしてこの自己認識は、思考や感情のすべての動きを凝視し、表面的な上層ばかりでなく、奥深いところに隠れている下層の活動をも含めて、私のあらゆる意識を知ることなのです。

…と説いています。そして、

奥深く隠された活動や、隠れた動機、反応、思考、感情を知るためには、意識している精神が静かになっていなければなりません。

なるほどなるほど。

そのとき精神は、無意識や精神の無数の隠された層 
-民族の本能・埋もれた記憶・隠された欲望の追求・いまだ癒されていない心の深い傷など- の暗示や指示を受け容れることができる状態にあるのです。

仏教でいう八識に向かっている状態か…。

これらすべてのものが自らを意識面に投影し、理解されたとき、また意識全体が全ての傷や記憶から解放されて自由になったときに初めて、精神は永遠のものを受け容れる状態にあるのです。
『自我の終焉』より

とある。

「心の中には、多数の経験・知識・記憶だけが詰まっているのです。

心の中は過去の時間だけが詰まっているのです。

知識も経験したいと思うことも過去の産物であり、そして全ての記憶も過去の経験が蓄積されたものなのです。

つまり、我々の心は過去の出来事に縛られているのです。

心はその意識的部分から無意識的な部分に至るまで、過去の出来事を完全に捨て去ることが出来るでしょうか?

これこそが、瞑想なのです。
『暴力からの解放』より

ひとは自分自身を知らなければなりません。

というのは心が知識すべてから自由になり、新しい何かを発見することがいったいできるかどうかを見出したいなら、【自己を知ること】が不可欠だからです。

自己の究明こそが重要で、その先に悟りへとつながる道があるのだろうか。

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