白隠さんの叱咤激励
私たちは、長くもない人生で、どうしょうもない無常感を感じたことはないだろうか?
昔、山梨県の菴原(いはら)というところに平四郎という男がいた。
ごく平凡に暮らしていたが、あるとき、滝つぼの水を見てどうしょうもない無常感に襲われた。
滝の水がごうごうと音を立てて落ちる。そうして生じた泡が浮かんでは消え、消えては浮かぶさまを見て、人生と同じではないかと、いたたまれなくなった。
そして、一大決心をして、浴室にこもり、自己流の座禅を始めた。
初めのうちは妄想に悩まされたが、なにくそと頑張ったのである。
明け方ふと我に返ると自分の体がまったく無い。やがて体の感覚は戻ったが、こんな具合に座禅をまる三日間続けたあとの朝、見るものがいつもと違っていた。
変だと思い、白隠さんを訪ね、見てもらうと『見事に見性している』と認められたのである。
白隠さんは、弟子たちに、この男のようになぜ勇猛心を起こさないのかと、ハッパをかけている。
理屈はいらない、方法とて自己流でかまわぬ。とにかく『なにがなんでも!』という大勇猛心さえあれば、初心者でも思わぬ境地に到達できる。と、説いている。
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大信心の重要性
悟りに至るには、信じ切る大信心も欠かせない。
この『信じ切る』ということについて、ある説話がある。
大麦小豆二升五升・・・あるところに、念仏で病気をなおすというお婆さんがいた。
からだの悪い人に出会うと、悪い部分に手を当て、『大麦小豆二升五升(おおむぎしょうずにしょうごしょう)』という不思議な念仏を何回か唱えるのである。
すると病気の人が快方にむかうのである。
ところがある坊さんが、このことを聞きつけて『そんなことが、あるのか』と色々調べてみた。
そして、『金剛経』の一節に『応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)』とあることを発見したのだった。
そして、おせっかいにも、お婆さんに『応無所住而生其心というのが正しいんだよ』と教えてしまったのである。
お婆さんは、素直に納得したのだが、どういうわけか、お婆さんの念仏は病気に、まったく効かなくなってしまった。
これなどは、不思議な話ではない。
以前のお婆さんは、信じ切っていたから、無心に念仏を唱えることができた。
お婆さんの無垢な心が相手にも通じたのだ。
だが、坊さんの入れ知恵でお婆さんの心に迷いが生まれたのである。
信じ切っていない心でいったい何を生みえよう。
悟りにいたるには理屈、かたちなどではなく、大信心と大勇猛心がまず欠かせないのだと思った。
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