第二の矢を受けない|仏陀の教え 執着を断ち切る

仏陀が弟子たちにあるとき質問した。

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教えを聞いた者といまだ聞かざる者とでは苦しみを受けたとき、それから生じる感情はどう違うのだろうか?というものであった。

これは、目、耳、鼻、舌、触覚で感じたものとそれにともなう感情のことをいっている。

たとえば、美しい絵を見て楽しいと感じたり、逆に醜いものにふれ、嫌悪を感じるのがそれである。

それに対し、弟子たちはわかりませんから教えてくださいといった。

仏陀は弟子たちよ、まだ教えを聞かぬ者は苦受を受けると嘆き悲しみ、いよいよ混迷する。

それはあたかも第一の矢を受けて、さらに第二の矢を受けるに似ている。

しかし、すでに教えを受けた者は苦受を受けてもいたずらに混迷にいたることはない。

それを第二の矢を受けず、というのである。

そしてそれは楽に関しても同じである。と語った。

だれでも綺麗な花を見れば美しいと感じるもので、それがまず第一の矢を受けるということである。

しかしそこからどう感じ、第二の矢を受けるかどうかは、教えを聞いたかどうかでちがってくるというのである。

いたずらに苦悩を生じさせないためにも、苦受をうけても、いらぬ妄想などはさけたほうがいい。

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一方、それと似たような話しに一休さんの話しがあったのを思い出した。

あるとき一休さんが弟子を伴いある所へ行く途中、何処からともなく、うなぎを焼くいい匂いがしてきたという。

一休さんは、

”あーいい匂いじゃ食べたいのー”

と言ったという。

これを聞いた弟子は一休さんともあろうお方が、そのようなことを言ってよいものであろうか?と思い、一休さんにそのことを聞こうか聞くまいかと迷いながら、とうとう船着場まで来たのであった。

船着場まできてやっと一休さんに聞こうと決心して、思い切って聞いてみたら、

一休さんは、

”何じゃおまえはあのうなぎをここまでもってきたのか?”

”わしはとうに置いてきたぞ”
といったそうである。

これは執着の話しではあるが、それを聞いた弟子の顔が浮かぶ。

いずれもたとえ話としてはおもしろいと思った。

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